東三河データファイル 

金融通じて地域を発展

「TOPインタビュー」(上) 日比嘉男会長/豊川信用金庫

2014/10/07

6月に会長就任の日比氏

東海日日新聞社運営の新サイト「東三河データファイル」に参画する豊川信用金庫。今年6月に理事長から会長に就任した日比嘉男氏に、これまでの同庫の歩みなどについて聞いた。
※聞き手、東海日日新聞社・白井収社長

対談風景

規模でなく必要とされる企業に

—理事長時代も含め、これまでどんな点に思いを持ってやってきたのか
 当庫は創立77年、私も入庫53年になる。理事長を11年1カ月やらせてもらったが、信条として信用金庫の原点である「金融を通じていかに地域を発展させるか」という点に力を注いできた。

ー入庫当時の豊川はどんな様子だったのか
 最初の配属は牛久保支店。5年後、諏訪支店に移ったが、昭和40年ごろ、諏訪は工業団地として豊川で一番元気で活気のある地だった。まだ給与振込などない時代だったので、給料日とその翌日には夜遅くまであちこちの社宅をまわり、多くの現金をお預かりした。直にお客さまと接することで、当時の企業の勢いを実感できた。ただ、その隆盛の時代から衰退の様子までを目の当たりにし、教訓として受けたことは、量や規模ではなく、自分たちが必要とされる企業であり、他から認められるものを自力で作っていかなければならない。「当庫ならこういうことができる」という強みを持つことが必要だと身をもって経験した。さらに後に例の騒動があり、二度と同じことが起きないよう、地に足をつけて、地域に信頼される金庫づくりが必要だと痛感させられた。

「豊かなくらしをお手伝い」を

—取り付け騒動のことか
 昭和48年12月13日、小坂井支店での取り付け騒動。実はその当時、私は小坂井支店で役席に就いていた。

—まさに現場にいたということか
 現場にいた。その日は午前中だけで定期の解約が相次ぎ、現金が足りなくなり、牛久保支店まで調達しに行ったのだが、その行き帰りのほんの30〜40分の間に、支店前から飯田線の線路まで長蛇の列ができていたことは本当に驚いた。「豊川信用金庫は危ない(つぶれる)」というデマがデマを呼び、取り付け騒ぎにまで発展したのだが、今考えてみれば、当時は情勢も不安定だったし、オイルショックでトイレットペーパーも手に入りにくいような時代。そこへ来て、まち金融が倒産した話も出てきて、混同されてしまったのかもしれない。誰を責めるでもなく、無理からぬことだったと思う。

 今でこそ当庫も全38店も支店があるが、当時は6支店しかなかったし、まだ信用金庫自体がどういう組織なのか、市民の皆さんに理解されていなかったのだろう。後日、当庫の母体である信金中央金庫と全国信用金庫連合会に状況を説明しに行ったが、この騒動をきっかけに、信金業界全体で地域の信頼を得るべく努力していかないといけないという流れになっていったので、ある意味好機となったと思っている。(つづく)

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