丹いね子は明治27年(1894)年12月、愛媛県新居郡西條町において丹霊源、はるの長女として生まれ、生後間もなく東京・京橋区加賀町に移り住んだ。
いね子は女学校を卒業後、音楽家を目指し、東京音楽学校へ入学したが、心ならずも声楽家にはなれず、その後、新聞記者、タクシー経営者、女優、鳥料理屋の女将など遍歴した。
東京音楽学校予科に入学した時、先輩に原信子がいた。急速に親しくなったが、突然、いわゆる「水銀事件」(丹が何者かに水銀を盛られ、声がつぶれたという事件。一説には原に疑いがかけられた)が持ち上がり、憎み合う関係となった。
東京毎夕新聞に載った「女色魔の悪辣 原信子も被害者」の記事に抗議したいね子は同社の井上与十から声がかかり、記者に採用され、飛行機に強い関心を持つようになった。
社会主義に傾倒したいね子は衆議院議員の浅原健三と近づき山本宣治の死に涙し、昭和48年、79歳で波乱の生涯を閉じた。