元亀3(1572)年、甲斐の武田信玄は二万の軍勢を率いて甲府を出陣、織田信長の同盟者である徳川家康の領地・遠江へ侵攻、二俣城を落として浜松城攻撃の準備を進めていった。
12月22日、武田軍は浜松から北に一里十町(約5キロ)ほどの追分で兵を休めたのち、なぜか進路を転じ、鳳来寺道(金指街道)から北西の三方ヶ原台地へ進みだした。
武田勢は祝田坂という細き坂道を下ることになると見定めた家康は浜松を出陣して武田軍を追尾、雪の舞い散る三方ヶ原の地で激戦を展開した。
世に言う「三方ヶ原の戦い」で家康は惨敗、命からがら浜松城に舞い戻った。通説では信玄に相手にされなかったことに怒った家康が、武士の面目を保つために戦いを挑んだと言われてきた。
歴史学者の平山優は「新説 家康と三方ヶ原合戦」(NHK出版新書)で信玄は浜名湖の制海権を扼(やく)す堀江城を攻めんとし、これを恐れた家康が決起した新説を提示している。
