米軍機による学校爆撃目撃

田原市の「高松の歴史・文化を学ぶ会」/お年寄りから聞き取り伝言書で紹介/「高松陣地と戦時生活」〈下〉

2026/10/14

『伝言書 尾村山の戦争遺跡と高松』を手にする会員。バックは尾村山の一角(田原市内で)

 渥美半島の太平洋側のほぼ中央にある高松(旧赤羽根村)の人たちの戦時中は、どうだったのか―。地域の歴史愛好者らでつくる田原市の「高松の歴史・文化を学ぶ会」が、戦争遺跡「高松陣地」の解明とともに地元の高齢者らから聞き取り、伝言書にまとめた。米軍機による学校爆撃の目撃や、子供たちが陣地づくりへの協力など。貴重な体験が紹介されており、学ぶ会は「悲惨な出来事を二度と繰り返さないため、次世代に伝えたい」としている。

 ■食糧増産に励む
 戦時中の出来事で高松の人たちを震え上がらせたのが、1945年7月の米軍機による高松国民学校(現高松小学校)の爆撃。爆弾が落とされ、少女は飛んできた破片が直撃して即死、お年寄りもけがを負った。目撃した女性(86)は「屋根は大きく壊れて床は吹き飛び、大きな穴が開いた」と恐怖の記憶を振り返る。

 戦争の激化で学校には疎開者が増えた。100歳近い女性は「8学級全校で約400人」と説明する。高松小の2025年時点の69人と比べ、約6倍にあたる。

 学校は不足する労働力を子供たちで補い、食糧増産に励んだ。「運動場は芋畑。岩ケ下農場や原山農場などがあった」「高等科岩ケ下農場作業 高等科男子原山農場甘藷(さつまいも)植え」などと当時の学校日誌からうかがえる。

 また、本土決戦に備え、渥美半島を守る第73師団(怒部隊)が学校に駐屯し、尾村山の高松陣地づくりを進めていた。男性(90)は「先生の命令で山へ米や野菜を運んだ。少し手伝った」と作業に加わっていたことも明らかにしている。

 大戦中の44年12月の東南海地震と45年1月の三河地震も衝撃的だった。大きな被害はなかったものの、大正池のえん堤が決壊する恐れが出たほか、余震に悩まされて家の前に造った小屋での生活が続いたと高齢の男女が語っている。

 忘れてならないのが45年8月、2500人以上が命を落とした米軍機による豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲。学徒動員で働いていた高松出身の80代後半の男性は「大きな防空壕に爆弾が直撃し、中の人たちは全員が亡くなった。(私は)小さい防空壕に逃げて運良く無事だった」と惨状を語る。

 ■一人一人が努力
 学ぶ会は高松町内の80代から90代の十数人、町外の9人から聞き取り、『伝言書 尾村山の戦争遺跡と高松』にまとめた。当時の様子を現した写真も掲載した。年齢は聞き取り時。A4判197㌻。7月に出来上がり、100部を協力者や市内の公共施設などに無料で配った。

 会員の1人は、伝言書に記された悲劇が繰り返されないように「安心して当たり前の生活が送り続けられるよう、私たち一人一人が努力していかなければならないと、強く心に刻んだ」と結んでいる。

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