田原の民間グループ「高松の歴史・文化を学ぶ会」/「高松陣地と戦時生活」〈上〉
2026/10/06

「高松の歴史・文化を学ぶ会」の会員が調査した高松陣地の一つ
太平洋戦争末期の本土決戦に備え、渥美半島に築かれた「高松陣地」の全容が、田原市の「高松の歴史・文化を学ぶ会」(神谷道宣編集長)によってほぼ解明され、『伝言書 尾村山の戦争遺跡と高松』にまとめられた。確認された遺構は200カ所以上にのぼり、その一部の役割などが詳しく解説されている。民間グループによる陣地解明は愛知県内で初めてとみられ、学ぶ会は「戦争が長引けば半島が悲劇の沖縄戦の再現になっただろう」と警告している。
■重要な報告
学ぶ会によると、高松陣地は、伊勢湾への米軍艦船の侵入を防ぐため豊橋から伊良湖への物資輸送の陸上経路を遮断する目的で、半島の蔵王山陣地とともに第73師団(怒部隊)に所属する部隊が1944年、配置された。半島先端に据えられた二十八糎榴弾(にじゅうはちせんちりゅうだん)砲陣地は、その最後のとりでと言われていた。
半島のほぼ中央にあり、尾村山(標高189㍍)から野田の雨ヶ森にかけての壕(ごう)群と呼ばれている。学ぶ会の解明で野田側の北斜面と南寄りの高松側には中枢部を構えて砲台を配置、それぞれ太平洋と汐川を射程に捉えていた。居住用の坑道式掩蔽(えんぺい)部と修理壕、機関銃座を備えたという。
西寄りの赤羽根側には敵を監視する監視所や機関銃座、東側の大正池を見下ろす大草側には敵を迎え撃つ擲弾筒(てきだんとう)、池のほとりには物資保管壕などを配置。南側の展望台付近では観測、通信用などの壕約20カ所が確認された。
中枢部近くの戦闘指揮所は、監視所などからの情報を受けて指示を出し、機関銃座が陣地を守る役目を担ったとされる。
これらの遺構は、掩体(えんたい)やたこ壺(つぼ)など208カ所。保存状態が良いという。指導した戦争遺跡研究の第一人者で名古屋市見晴台考古資料館の伊藤厚史学芸員が、2002~03年の調査で中枢部の遺構30カ所を確認しており、これでほぼ全容が固まった。「民間による陣地解明は県内で初めて」としたうえで、「日本軍の具体的な防衛手段を推定することができる。調査研究史の上でも重要な報告となっている」としている。
■「第2の沖縄」
学ぶ会は、前身が田原戦跡探査会。20年、高松陣地の解明を含め戦時中の地元の姿を次世代に伝えるため発足した。会員は地元の歴史愛好者ら10人。伊藤学芸員も加わり現地を9区画に分けて調査、遺構の一つ一つを記録した。調査は100回以上に及んだ。 高松陣地について伊藤学芸員は「渥美半島を盾に名古屋を守る意味があり、戦争が長期化すれば半島が『第2の沖縄』になっただろう」と話している。
次回は、伝言書で高松陣地の解明とともに重要な戦時生活に焦点を当てる。