子どもの反応に思い巡らせ

「伝わったか―」豊橋市の元教員が語る地元の戦争の話/10回を数えた老津小平和学習 ③

2026/08/04

「戦争の話」の出前授業をする鈴木敬さん(老津小学校で)

 太平洋戦争末期はどんな状況だったか―。元教員で豊橋市老津町の鈴木敬さんは、この地域で見たり聞いたりしたことをまとめて老津小学校で出前授業を開いた。「敬先生」の愛称で親しまれ、別の出前授業でおなじみだが、「戦争の話」を語ったのは初めて。3回目の連載では、取り上げた中から「大崎島」(現大崎町周辺)「叔父(おじ)さんの話」「戦争時の生活」にスポットを当てる。

 ■体験談を聞く
 戦争が激化したのは戦争末期の1945年。東三河では米軍機が激しい攻撃を行った。6月19、20日の豊橋空襲で624人が亡くなり、8月7日の豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲では2500人以上が命を落とした。終戦前日の14日には、今の田原市を走る電車への機銃掃射で乗客ら15人が亡くなり、16人が重軽傷を負った。

 鈴木さんは当時5歳ぐらい。6月17日の出前授業で、地元での出来事のうち、一つ目の大崎島の話を語り始めた。「日本の戦闘機が落ちた」と聞き、近くの森崎の畑に出掛け、多くの兵士がいたのを覚えている。ただ、当時は「戦闘機や操縦士がどうなったかわからなかった」と振り返った。

 大崎島は、かつて滑走路3本を備えた豊橋海軍航空基地だった。標的にする米軍機が近づくと「空襲警報」が鳴り、耳の遠い曾祖母が地震と勘違いして防空ごうを飛び出したことも記憶している。

 特に衝撃だったのが、豊橋空襲で中心部を焼け野原にした焼夷弾。自らが段ボールで作った模型を見せ、燃料を入れて日本特有の木造住宅を焼き尽くした仕組みを詳しく語り、「多くの人が犠牲になった」と経験談の一部を説明した。

 二つ目は叔父の海軍中尉の話。叔父は海軍特別攻撃隊の人間魚雷「回天」に乗り込み、米軍の軍艦に体当たりする搭乗員候補だったという。出撃前に終戦となり「助かった」とのエピソードを終戦後に聞き、「同じ海軍の神風特別攻撃隊の訓練が豊橋海軍航空基地で行われていた」との話も紹介した。

 三つ目が戦争時の生活。男子は20歳で兵隊に、女子は兵器づくりなど工場で働いた。豊川海軍工廠では「銃弾をつくっていた」と話した。関連してその工廠の空襲の際、「イモ畑に逃げて助かった」と教員時代の先輩から聞いた体験談も披露した。また、戦時中は食べ物が少なかったので生活が苦しく、国が配給制を取り入れていた具体例を挙げ、説明した。

 ■子どもの反応
 鈴木さんは2000年、豊橋市立磯辺小校長を最後に退職した。18年から4年生を対象に老津小で「老津の海」の出前授業を開いている。今回、学んだ6年生約30人は、2年前にも受けている。「二度と戦争を繰り返さないとの思いで話をしたが伝わっただろうか」と子どもたちの反応に思いを巡らせている。

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