母の記憶を、戦争の記憶を

「もうだめだ」7歳の母を救った薬売り/白昼の機銃掃射 母が語った戦争/体験者の生の声に触れられるのも自分たちの世代が最後

2026/08/14

1952年ごろ、中学3年と思われる母

 戦争を体験した人が年々少なくなっていく。記者の母もその1人だ。1937(昭和12)年生まれで、物心ついたころは太平洋戦争のさなか。終戦時は7歳だった。戦中の記憶があるギリギリの世代だろう。その母も5月に88歳で死んだ。生前、何度も聞いた戦争体験の一つを母の視点で記録しておきたい。

 ■〈母の話〉白昼の機銃掃射

 静岡県の旧東海道「新居関所」近くの小学校。当時は「国民学校」といった。午前中で授業が終わり、2年生だった私は一番に校門を飛び出した。空腹を抱えながら家に向かって駆けていると、空襲警報が鳴った。

 すでに帰路の半分を過ぎていた。学校へ引き返すかどうか迷っていると、いつの間にか頭上に戦闘機が飛来している。自分1人を狙うように執拗(しつよう)な銃撃が始まった。

 松並木が続く、起伏の多い一本道。住民は防空壕(ごう)に入って息を潜めているのか、辺りは静まり返っている。必死に走った。噴き出す汗。自分の弾んだ呼吸だけが聞こえる。

 振り返ると、低空飛行の戦闘機に乗った米兵がニタニタと笑っているのが見えた。転んで、はいつくばると、目の前の土に弾丸がピュンピュンと突き刺さる。「もうだめだ」と思った。

 すると、松の木陰から「おい、何しとる。こっち来い」と手招きする人がいる。鳥打ち帽をかぶった「富山の薬売り」のおじさんだ。富山県発祥の置き薬の行商人で、柳ごうりを背負って各家庭を巡っていた。

 おじさんは私を背後から抱きかかえたまま、松の幹に背をピタリとつけた。そして旋回する戦闘機から死角になるように、幹を軸にぐるぐると回った。戦闘機が諦めて去ると、「今のうちだ。とんで(走って)行け」と背中を押してくれた。

 自宅に駆け込むと、母親が妹を抱えて防空壕から出てきたところだった。「1人で帰って来ただか?」ととがめられた。銃撃されたことを言えばもっと叱られるから黙っていた。その後、姉たちや妹にも話すことはなかった。

   ◇

 「あのとき死んでいたかもしれない。でもアメリカ兵はからかっただけかも。それとも、殺すことに抵抗がなくなる戦場心理だったのか」。そう母は振り返っていた。

 母は取り立てて「戦争反対」とは言わなかった。ただ終生、政府を信用していないようだった。戦争が終わり、手のひらを返された経験があるからだろう。同い年の解剖学者、養老孟司氏も、終戦を境に世の中が180度変わったことについて語っている。それまで軍国主義を支えていた教科書の記述を墨で塗りつぶさせられた世代だ。

 母はさばさばした性格で、恨みがましいことを一切言わない人だった。それでも「また戦争の話か」と、こちらが飽き飽きすることもあった。それでいて、もっと聞きたいとせがむと「過ぎたことは忘れた方がいい」とつれなくされたこともあった。

 本当は、もっと残酷なことがあったのかもしれない。幼なじみの中には艦砲射撃で亡くなった子や、空腹のあまり拾ったドングリを食べて死んだ子もいたそうだ。ただ、詳しくは語らなかった。

 「語り継ぐ」と一口に言っても、簡単ではない。今回の母の体験にしても、聞き間違いがあったかもしれないが、訂正してくれる人はもういない。

 ただ、戦争体験者の生の声に触れられるのは、自分たちの世代が最後だろう。もし家族や身近にいるのなら、お盆休みをいいきっかけに、あらためて話を聞いてみてほしい。

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