閉ざされた西門・軍国主義の闇

【戦後77年 戦時下のタブー①】豊川海軍工廠空襲/「退避は退却」と工廠長 将校が脱出阻止/一蹴された校長たちの陳情や早大教授の進言

2022/07/31

工廠跡地西側に架かる西門橋。かつてこの付近にあった西門で多くの犠牲者が出た(豊川市穂ノ原で)

 1984(昭和59)年、時の豊川市長、山本芳雄は海軍共済病院の同窓会にいた。あいさつに立った山本は、次のように語った。 「爆撃の際は西門を私の命令で開扉して、そのまま挺身隊や学徒と一緒に表へ逃げてやっと助かった、そういう経緯がありまして。...

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