「私たちの青春は戦争一色だった」

豊川海軍工廠と豊橋空襲体験 普遍的な思い語り継ぐ/豊橋市の伊藤和子さん(94)

2025/08/14

慰霊碑に手を合わせる伊藤さん(豊橋市新吉町の龍拈寺で)

 豊橋市中世古町の伊藤和子さん(94)は、戦時中に豊川海軍工廠(こうしょう)や実家で空襲被害に遭って多くの級友や知人を失った。終戦から80年。同窓生らが眠る慰霊碑に手を合わせながら、目に焼き付いた記憶をたどり「私たちの青春は戦争一色だった」と振り返る。

終戦から80年 紡いだ命で亡き同窓生悼む/目に焼き付いた記憶 平和への願い

 ◆亡き同窓を悼む
 伊藤さんは1944年、豊橋市立高等女学校(現・豊橋東高校)に入学。間もなく豊川海軍工廠に動員されて武器の製造作業を担った。「まともな学生生活はわずか数カ月間だけだった」と語る。

 翌年8月に海軍工廠が空爆に見舞われる。空襲警報は発令されていたが、上官の命令によって作業は続行。炎上が起きてから四方八方に逃げ惑う人々の中、伊藤さんは何度も防空壕(ごう)に身を隠しながら命を取り留めた。

 逃げる途中でわら草履の鼻緒が切れて「ここで死んでしまうのか」と不吉な未来を覚悟した。病で長らく欠席していた同級生は、久方ぶりに登校した日に空襲が発生。建物の下敷きになって亡くなった。「がれきの下から、かすかに動く彼女の手首が見えた。しばらくは夢にうなされた」と悼む。

 豊橋市新吉町の「龍拈寺」には、空襲で亡くなった女学生が眠る慰霊碑がある。隣には、半田市の「中島飛行機半田製作所」に派遣され、大地震によって亡くなった同校女学生23人の供養を願う「乙女の像」も並ぶ。

 伊藤さんは、定期的に寺を訪れて英霊を慰める。毎年8月に豊橋東高校である平和祈念式典にも参列。花を手向けて「私たちの身代わりになっていただいた」と感謝の念を墓碑に語りかけている。

 ◆賢明に語り継ぐ
 豊橋空襲によって銭湯を経営していた実家は焼失した。隣にあった映画館や中心街のにぎわい、入浴に来る憲兵隊とのふれ合い、物々交換しながら空腹をしのいだ日々。「この季節になると戦時中を思い出す」と夏空を見つめる。

 連絡が取れる同級生は数人のみとなった。「年々、喪中はがきが届くようになった。当時を語り合う人が少なくなっている」と哀愁をのぞかせる。

 現在は同い年の夫と暮らす。孫4人とひ孫8人に恵まれ、盆や正月は自宅がにぎやかな声に包まれる。兄は戦後に結核で死亡。姉と妹は3歳で亡くなっている。「家族と一緒に暮らせることは幸せなこと」と何げない日常を尊ぶ。

 趣味であるパッチワークの個展を開くなど、精力的な日々を送る。背筋を伸ばし、化粧をまぶした品のある表情と凜(りん)とした口調に培ってきた賢明さと生き様が表れている。

 無念にも散った同胞や同窓生が胸に眠る。工廠から逃げ延びた後は、歩いて自宅へ向かった。6月にあった豊橋空襲時は、河川の中州にある島で惨劇が過ぎ去るのを待った。

 紡いだ命。過去と現在、未来に白黒をつけずに普遍的な思いを語り継ぐ。「若い人には私たちと同じ思いはさせたくない」と節目の年に平和の意義と意味を問いかける。

2025/08/14 のニュース

慰霊碑に手を合わせる伊藤さん(豊橋市新吉町の龍拈寺で)

有料会員募集

今日の誌面

有料会員募集

東日旗

きらり東三河サイト

高校生のための東三河企業情報サイト

連載コーナー

ピックアップ

Copyright © TONICHI NEWS. All rights reserved.

PAGE TOP