記憶生々しく心癒えず

豊川海軍工廠爆撃きょう72年/平和の語りべ・浅若桂さんが背負う「あの時」

2017/08/07

 戦後72年。豊川海軍工廠が爆撃を受けたあの日から長い年月が流れた。戦後生まれの世代が大半を占めるようになった今、戦争の悲惨さや愚かさは薄れつつある。しかし、その時代に生きた当事者にとって、その生々しい記憶はいつまでたっても消えることも癒やされることもない。豊川市内で小中学生に戦争体験を語り継ぐ「平和の語りべ」をする浅若桂さん(88)もその1人だ。

 豊川海軍工廠で被爆した浅若さんは体験談の中で「A君」と呼ぶ亡き友人を、いまだに名前で紹介することが出来ない。「いろいろな感情が湧き出て、どうしても公で名前を口にできない」と口ごもる。

 浅若さんとA君は豊橋中学校(現・時習館高校)の同級生で、1944年9月、15歳で豊川海軍工廠に動員された。同じ弾丸工場に配属になったことで急速に親しくなる。「素直で本当にいい子だった」。積極的な浅若さんとおとなしいA君はいいコンビ。弾丸を運ぶだけのつまらない仕事だったが、日々の生活ではその時なりの青春を謳歌(おうか)し、尊い日々を生きていた。

「たぶん死ぬまで」ぬぐえぬ引け目/「A君」―いまだ亡き友を名前で語れず

 そして迎えた45年8月7日。工場内にいた2人は突然の爆撃に襲われた。連れだって外に出ると、すでに工員たちが大勢横たわり、空を仰げば黒い爆弾が落ちるのが見える。遺体の中を飛び回ってやっとの思いで防空壕(ごう)にたどり着いた。浅若さんたちは重要書類を持って来なかったことが気にかかり、すぐに取りに帰れるように入り口近くに立った。すると間もなく防空壕の中央部に大きな爆弾が落ちる。がれきと土に顔まであおむけに埋もれて呼吸も苦しく、身動きが取れない。「このまま死んでしまうのか」。その時、上を通りがかった人が浅若さんに気付き、鼻にかぶった土を払ってくれ、息ができるように。もがいて何とか身動きが取れるようになって我に返ると、遺体の下敷きになってうなり声を出すA君を見つけた。しかし引っ張り出すことが出来ず、「待っとれ。助けるでな」と言い残し、助けを呼ぶために防空壕の外に出た。その途端に気を失い、気が付いた時には病院のベッドの上。「Aは死んだ」。大人にそういわれ、浅若さんは悲しみのどん底に落ちた。「助けられなかった」。しかしそれから7日後、2人は再会を果たす。A君は助けられ、他の病院に運ばれていたのだ。

 終戦後、2人は豊橋中学の学生に戻った。戦争のことや工廠のことは一切触れずに日々を送った。それからA君は大学へ、浅若さんは小学校の教員へと別の道を歩み始める。

 「A君が病気で死んだ」と聞いたのはA君が大学2年の時。浅若さんはやりきれない気持ちでいっぱいになった。A君は戦死したわけではない。あの防空壕で浅若さんが助けなかったのが原因ではない。それでも「自分だけがぴんぴん生きている。防空壕で直接助けられなかった記憶がよみがえって引け目を感じる」と浅若さん。複雑な気持ちが絡み合い、公の場でA君の名前を出すのがつらいのだという。「たぶん、死ぬまでこの気持ちはぬぐえない」。

 それでも浅若さんの心の中には、青春時代を共に過ごした友との思い出も大切にしまってある。

 「A君の家でお母さんが作ってくれて一緒に食べたライスカレー。生まれて初めてだった。こんなにうまいものがあるのかと驚いた」と振り返り、「今1番会いたい人はA君。きっと思い出話は尽きないだろうよ」。

2017/08/07 のニュース

豊川海軍工廠での体験を語る浅若さん

浅若さんとA君が入った防空壕。右端が2人(絵=浅若さん)

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