国府高校元甲子園球児の軌跡㊦/当時2年生正捕手・市川和正さん(66)/県内外の強豪校と渡り合う/「てっぺん、日本一を目指してほしい」
2025/08/02
甲子園の開会式で入場行進する国府ナイン(国府高校甲子園出場記念誌「球譜」より)
1975年に夏の甲子園に出場した国府(豊川市)。当時2年生ながら正捕手の市川和正さんはエース青山久人さんとバッテリーを組み、県内外の強豪校と渡り合った。甲子園でのプレーはその後の大学進学、プロ入りへの礎となった。
50年前の夏はベトナム戦争が激化し、国内では第1次オイルショックの影響で大企業の倒産が相次ぎ、昨今と似た社会情勢にあった。豊橋中央が今年、私学4強(東邦、中京大中京、愛工大名電、享栄)の牙城を崩して県の頂点に立ったように、国府も県大会で強豪私学を次々と破った。
国府は、私学4強のうち東邦以外の3校と当たる「死のブロック」に入ったが、2回戦で享栄に2―0、3回戦で中京(現中京大中京)に4―0、準々決勝で名古屋電工(現愛工大名電)に3―1で勝利。市川さんと青山さんのバッテリーを中心に強力な打線を封じ込めた。
同年春の県大会では東邦を下し、5月の招待試合では後に巨人で活躍する原辰徳さん擁する東海大相模(神奈川)にも勝っていた。市川さんは「当時は一番強かった東海大相模も破っていたので、強豪を相手に委縮するようなことは全くなかった。原さんのいる相模にも勝てたことが自信になって、愛知県でもいけると思った」と明かす。
甲子園の柳井商業戦では、4回に左前打を放つなど気を吐いた市川さん。勝利はつかめなかったが「プロに行きたいという小学校からの夢が、より大きくなった」。卒業後は原さんと同じ東海大学に進み、1980年に大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)にドラフト4位指名を受けて夢をかなえた。
豊橋中央には、半世紀前の自分のように自信を持って戦ってほしいと願う。
「戦国愛知と呼ばれる愛知県で、名古屋のチームを破って甲子園に出ることは本当にすごいことなんです。まずは我々が成し遂げられなかった1回戦を勝って、てっぺん、日本一を目指してほしい。これが本音です」。