戦没者供養塔で慰霊祭

豊川海軍工廠空爆から72年/さまざまな思い胸に参拝

2017/08/08

 戦時中、東洋一の兵器工場といわれた「豊川海軍工廠」。1945年、広島原爆の翌日となる8月7日に米軍機の爆撃を受け、2500人以上の尊い命が散った。それから72年。豊川閣妙厳寺の敷地内に建てられた戦没者供養塔で毎年開かれる慰霊祭(八七会主催)には今年も、生存者や、犠牲者の遺族がさまざまな思いを胸に訪れた。

 豊橋市瓜郷町の中島三郎さん(82)は、工廠の総務部で働いていた姉のコトミさん(当時20歳)を亡くした。コトミさんは豊橋高等女学校を出て工廠に就職。工廠へは下地駅から飯田線で通っていたが、空襲の朝は中島さんが下地駅まで自転車でお供をしたという。そしてそれっきり帰らなかった。

 中島さん宅では前の年の44年には兄が北支で戦死。45年6月の豊橋空襲では家が全焼した。そしてコトミさんの死。「本当につらかった」。

 中島さんは「姉は絆でつながった家族。健康なうちはこれからも毎年来たい」と話し、一方で「72年の月日は長く、記憶も風化する。もう姉の顔を思い出せないんだよ」と寂しそうにほほ笑んだ。

 長野県松本市からはるばる駆けつけた人もいた。木曽御岳本教の行者、児玉嘉人さん(91)だ。

 建築業で働いていた児玉さんは43年4月、17歳で徴用されて入廠した。木型工場に配属され、仲間と共に厳しい勤務を耐えた。45年6月には海軍に入隊して横須賀で終戦を迎えたため、工廠の空襲を免れた。

 自責の念に駆られ、毎年のように供養塔に足を運ぶ児玉さんだが、亡くなったはずの工場の上司や同僚の影が見えるのだという。「成仏できていないのだ」。当時多くの仲間の死体が運ばれて仮埋葬された千両墓地。戦後掘り起こされ、千両墓地にあった供養塔などはもう1カ所の諏訪墓地に移設されて今も残る。児玉さんは「もう1度千両にお墓を建ててほしい」と涙ながらに訴え、唇をかんだ。

 多くの生徒が犠牲になった豊橋桜ケ丘高等女学校(現・桜丘高校)の満田稔理事長(75)は、「平和を守らなければいけない。いつも祈っている」と塔に彫られた少女たちの名前をなぞり、その向こうでは「同級生が7人亡くなった。悲しいことだ」と顔を覆う男性の姿もあった。

 慰霊祭はこの日、台風の影響で、妙厳寺の僧侶が読経を始める直前に猛烈な雨が降り出した。それでも参拝者らは雨の中、静かに犠牲者の霊を慰め、次々に焼香をしていた。

2017/08/08 のニュース

大雨の中参拝する人たち(豊川海軍工廠戦没者供養塔で)

姉を亡くした中島さん㊧と妻のタエ子さん(同)

涙ながらに訴える児玉さん(同)

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