国府高校元甲子園球児の軌跡㊤/当時2年生レギュラー 田中邦宏さん(66)/「毎日が非日常」そして重圧/「失敗恐れず思い切ってプレーを」豊橋中央へエール
2025/08/01
75年夏の県大会決勝後、国府駅前で国府ナインを取り囲む群衆(国府高校甲子園出場記念誌「球譜」より)
夏の甲子園に初出場する豊橋中央。東三河勢では1975年の国府(豊川市)以来、半世紀ぶりに夏の聖地に挑むが、国府の元甲子園球児の軌跡を2回にわたり紹介する。初回は、当時2年生でレギュラーだった田中邦宏さん(66)。
50年前の夏、県大会は準決勝で先制打、決勝でダメ押し打と活躍した田中さん。甲子園出場を決めると「非日常」が始まった。
決勝戦後、県庁での表敬訪問を終えて豊川市内に戻ると、国府駅前に約1万人の住民が集まっていた。吹奏楽演奏と花火で祝福されたナインは、学校までの道のりを行進。熱狂的なパレードとなった。
甲子園球場がある兵庫への出発日も、街宣車と応援団に先導されながら国府駅までを行進。豊橋駅の新幹線ホームでもブラスバンドの演奏で激励された。田中さんは「とにかく、毎日が非日常だった」と振り返る。
大きな期待は重圧と化した。甲子園初戦の相手は柳井商業(山口)。6番遊撃で出場した田中さんは試合直前、アルプススタンドを埋めつくす6000人以上の大応援団に目を疑った。「そこから7回まで記憶がないんです。緊張すると〝あがる〟は違うものだと実感した」。
記憶に残る8回の守備で、痛恨の失点を許す。走者三塁の場面、けん制で走者が飛び出し挟殺プレーに。遊撃の田中さんも加わり走者を追ったが、本塁にカバーに入った投手の青山久人さんにボールを投じるタイミングが遅れ、走者の生還を許した。これが決勝点となり、初戦で敗退した。「自分のせいで負けたと思い、ベンチに戻って泣きました」。
県大会で活躍も、甲子園では悲劇のヒーローとなった田中さん。大会後、学校に来た拡声器付トラックからは「田中のバカヤロー!」の罵声(ばせい)が響いた。
酸いも甘いも味わった青春だが、田中さんは「あの失敗が、その後の人生にプラスになった。活躍したまま終わっていたら、天狗になっていたかもしれない」と受け止める。豊橋中央ナインには「いまの時代、軽トラックで言いに来る人はいない。雰囲気にのまれず、失敗を恐れず思い切ってプレーしてほしい」と願う。