帝国主義の光と影 第2回

陸軍誘致で発展した交通網/当時はへき地―難航した東田・瓦町への遊郭移転/大正には路面電車開業 現在の豊橋駅付近の形築く

2025/08/16

第15師団が開庁したころの高師村。資材を運んだレールの跡は道路となった(豊橋市美術博物館提供)

 日露戦争終結翌年の1906年、豊橋は全国62番目の市として産声を上げた。蚕糸業しかなかった豊橋では新たな発展策が求められていたが、陸軍が東海道筋に新たな師団を設置する方針を発表。浜松や沼津、岐阜と一緒に、豊橋市も誘致に名乗りを上げた。高師原、天伯原という広大な敷地が大陸作戦のための演習地に適し、市制施行の翌年、第15師団の豊橋設置が決まった。

 同年12月から国が買収した当時の福岡町や高師村の敷地で地ならしが始まり、翌春には建物や側溝、井戸や下水路の工事が始まった。建設資材は全国から牟呂港まで船で運ばれ、港から敷かれた往路2線、復路1線のレールの人力トロッコで運ばれた。この労働に従事した沿道の住民らは現金収入を得て、工事後にはレールが取り外され道路となった。1908年11月、第15師団は開庁した。

 師団誘致の際、市は道路網整備の観点からも、札木や上伝馬の遊郭を移転することを陸軍に約束していた。県知事からの命令で、遊郭業者たちは1910年8月までに所轄警察署に移転届を提出して認可を受け、東田か瓦町に店を移すことになった。

 しかし、当時の東田と瓦町は市街地から離れたへき地にあり、規定日までに移転した業者は少なかった。大半の業者が市から借地しただけで店舗は建てず、空き地として放置した。札木、上伝馬に残って芸妓置屋に転業する人もいた。東田、瓦町の遊郭は9月の開業当時は閑散としていた。

 師団が置かれた高師や、遊郭が消えた豊橋駅付近はこの時、現在の町の形を築いた。大正になって路面電車(現在の豊橋鉄道市内線)が開業すると、遊郭へ赴く人のために東田方面へ線路が敷設された。戦後、陸軍師団跡地は愛知大学や時習館高校、豊橋工科高校などの教育機関となった。(つづく)

東田遊郭の名残をとどめる建物(豊橋市内で)

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