帝国主義の光と影⑩

危機感のない防空演習/大本営発表影響 戦局悪化で備え強化も豊橋空襲で大損害/戦後復興後押し 簡易住宅と融資多くの市民利用

2025/08/24

昭和に入り、豊橋市の餌指橋付近で行われた防空演習(豊橋市美術博物館提供)

 日中戦争が始まる前年の1936年、豊橋市では町の総代や役員、在郷軍人らで防護団が結成され、その下部組織として国防婦人会が中心となった家庭防護群が発足した。敵国からの空襲に備える最初の市民組織だった。第二次世界大戦が始まった39年には、防護団と消防組が統一されて警防団が結成された。

 太平洋戦争が始まった41年には5日間連続で、翌年にも大規模な防空演習が実施されたが、大本営から伝わってくるニュースは日本軍の勝利ばかりで、市民には空襲が迫っているという危機感はなかった。

 しかし、戦局が悪化した43年からは本土空襲の現実味を帯び、校区や学校、職場ごとに訓練が行われた。44年のサイパン島陥落後は、町内会ごとに焼夷弾投下を想定した消火や防空壕への退避訓練が繰り返された。

 備えもむなしく、45年6月19日深夜、飛来した米軍のB29爆撃機136機の空襲を受け、624人が死亡。市街地を中心に全戸数の約70%が焼失し、約7万人が罹災した。

 終戦から約1カ月後、時の東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は戦災で焼けた全国の住宅に対し、約30万戸の簡易住宅建設を閣議決定した。愛知県は県直営の簡易斡旋住宅の建設に乗り出し、豊橋市では呉服町の豊川堂書店と中川洋服店にモデルハウスが築かれた。

 しかし、分譲価格は3400円、木材のみは1650円、資材全部なら2800円と当時では高額だったため、市民からの応募は少なかった。そこで、県は利息が安く返済期間が長い融資を実施し、これが多くの市民に利用され、戦後の住宅復興の足がかりとなった。(おわり)

豊橋空襲で被災し幹の部分から割れたエノキ(豊橋市湊町の豊川堤防で)

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豊橋空襲で被災し幹の部分から割れたエノキ(豊橋市湊町の豊川堤防で)

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