「江戸時代の名残とどめる街・豊橋」―中心地も推測/九州龍谷短大 岩瀬教授が講座
2025/09/23
空襲がなかったら、豊橋の「まちなか」はどんな姿をテーマに話す岩瀬教授(豊橋市内で)
空襲がなかったら、豊橋の「まちなか」はどんな姿―。九州龍谷短期大学図書館長・教授で豊橋市の岩瀬彰利さんは、「昭和100年」と戦後80年のこの夏、市内でこのようなタイトルで講座を開いた。歴史的な建物が残り「江戸時代の名残をとどめた街」と捉え、「広小路3丁目(旧5丁目)から札木にかけて中心地だった」と想像を膨らませた。まちなかの移り変わりを知るうえで貴重な話だけに紹介したい。
■戦前のまちなか
岩瀬教授によると、豊橋は太平洋戦争終戦前まで吉田城址(し)に陸軍が駐屯した「軍隊の街」。市電が今の駅前大通りではなく、広小路通り経由で札木を通って走っていた。丸物百貨店や郵便局、銀行のほか、老舗の料亭「千歳楼」(せんざいろう)、脇本陣をそのまま使ったますや旅館、映画館、菓子店や食料品店、運動具店、自転車店などが並び、繁華街として栄えた。
市街地には、明治天皇の行在所(あんざいしょ)が国史蹟(しせき)となった悟真寺(ごしんじ)や今橋城主・牧野信成が建てた龍拈寺(りゅうねんじ)、豊橋別院があり、知られる。境内で「寛永通宝」を鋳造した白山比咩(しらやまひめ)神社、文人画家として知られる渡辺崋山(1793~1841年)の「月に雁」を天井に飾った吉田天神社も。
幹線道路は、大正時代に作られた都市計画に従って建設が途中まで進められ、「せこ道」や「横道」などと呼ばれる狭い道も目立った。
戦前のまちなかについて「広小路5丁目から札木にかけてが繁華街だった。寺社や狭い道の中には江戸時代の色彩が強いものもあった」と説明した。
市街地は、当時約2万5000棟。1945年6月の豊橋空襲で、このうち約70%の1万7000棟ぐらいが焼失した。ただ、空襲で火災の延焼を防ぐ「建物疎開」として広小路5丁目から札木にかけての建物は、豊橋空襲前に取り壊されていた。丸物百貨店もその一つだった。
■歴史書で紹介
今も残っている建物は公営で公会堂、民間で旧名古屋銀行ぐらい。もし空襲がなかったらまちなかはどうなっているか。「今のようににぎわいが駅前に集中する形でなく、繁華街は戦前と同じところが中心」と推測する。
そのうえで幹線道路は今と似た位置に造られ、狭い道は区画整理が行われなかったため、そのまま残ったとみられる。
焼失した由緒ある旅館や寺社などは残り「歴史的な雰囲気のある街になっていただろう」と考える。
岩瀬教授は、元豊橋市図書館副館長。主な書店で発売中の歴史書「もしかしてこんな愛知だった?」の中で、戦前の豊橋の街並みや空襲で失われた文化財を紹介している。
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豊橋空襲 九州龍谷短期大学の岩瀬彰利教授によると、米軍のB29が1945年6月19日深夜から市街地の爆撃を始め、20日未明まで続いた。死者624人以上、重傷者229人、軽傷者117人に上った。焼失した建物は約1万6886棟で、市街地の約70%が焼失した。