昭和100年写真が語る渥美半島の歩み

①昔―田原西部小、いま―白谷公民館/校舎と校門が現存 採石場はゲートボール場に

2025/04/08

昭和10年頃の田原西部小学校(『渥美郡勢総覧』1935年刊より)

 上の写真は1935(昭和10)年頃の白谷にあった田原西部小学校である。コンクリートの高い塀に囲まれて山裾の急傾斜地に建っている。

 国旗が掲揚された正面の小さな校舎には職員室と3教室。全児童73人。2学年1教室の複式学級であった。右の校舎には音楽室や家庭科室。校門からは狭い校庭に集まる児童が見える。校門を出ると急な坂になり、手前が石灰岩の採石場で巨大なくぼ地になっていた。

 20(大正9)年にこの採石場で見つかった巨大な鍾乳洞は、「白雲洞」と名付けられ絵はがきにもなった。その後の採掘で消失した。

 下の写真は現在の姿である。大木に隠れて見えにくいが、奥の校舎は平屋建ての白谷公民館に、採石場跡の巨大なくぼ地は、埋め立てられてゲートボール場に変わった。正面の校舎と校門は現存し、校門跡の両側には白雲洞にあった石筍(せきじゅん)の一部が飾られている。

 西部小は68(昭和43)年に閉校。前年度の児童は31人だった。統合によって開校した童浦小へはスクールバスで通学している。

 田原市白谷町の藤城精一さん(79)は「石灰岩を掘っていた頃の白谷は、『金山銀海の郷』と言われるほど豊かな暮らしぶりだった。学校には水族館もあり、漁師が網で捕った魚を届けてくれ、6年生が海から海水を運んだ。白谷の海は埋め立てられ海浜公園に生まれ変わった」と語った。

西部小学校跡地が白谷公民館に(2月に藤城信幸撮影)

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