豊橋でも沸騰したファシズム/東条内閣誕生で大政翼賛会傘下となった町内会/配給物資割り当てなど あらゆる面で総括
2025/08/20
豊橋市公会堂前には完成当時から市民を見守った強さの象徴、ワシの像がある(豊橋市八町通で)
世界恐慌は経済だけでなく、政治にも影響を与えた。欧州ではイタリアのムッソリーニ政権やドイツのナチスなど、独裁的な権力と強力な軍事力で国民の権利や自由を抑圧するファシズムが台頭。日本でも天皇制を中心に国家体制を強化する動きが加速し、満州事変、日中戦争、そして真珠湾奇襲からの太平洋戦争へと突き進んだ。
ファシズム運動は東三河でも吹き荒れた。1932年5月、海軍将校らが犬養毅首相を暗殺した「五・一五事件」が起こると、豊橋市出身の衆院議員、鈴木正吾と杉浦武雄が所属していた民政党を離脱した。
鈴木は7月、前年に完成した豊橋公会堂に約1500人の聴衆を集め、新党結成を宣言。「我が国は国家改造の時代に入った」とし、数日後に「豊橋正吾会」を樹立した。杉浦も自身が率いる東三新興青年党を中心に「東三政治経済研究所」を創設し、同年秋の市議選挙で立候補者10人中8人を当選させた。鉄道会社などの労働者組合を取り込んだ豊橋愛国社同盟も影響力を高めた。
1936年、陸軍将校がクーデターに失敗した「二・二六事件」では、実行犯に豊橋陸軍教導学校の将校2人が含まれ、市民を驚かせた。日中戦争が始まると、新体制運動は「大政翼賛会」として組織された。豊橋にも支部が結成され、近藤寿市郎市長が支部長に就任。市役所に振興課を新設した。
太平洋戦争が始まり東条英機内閣が発足すると、町内会も翼賛会の下部組織となった。運営は町内の適任者に各係を割り当て進められた。町内会長は月に1回以上の常会を開いて支部の指令や伝達事項を協議し、配給物資や公債の割り当て、出征兵士の見送り、金属の供出など、あらゆる面で総括する役割を担った。
(つづく)