工廠誕生で豊川から引かれた水道/豊川市で進んだインフラ整備 現在も市民生活支える/工廠内には水洗トイレも 近年の調査で明らかに
2025/08/21
大和水源地に残る門柱。表札には「水源場」と書かれている(豊川市豊津町で)
弾薬や機銃、双眼鏡など海軍の兵器を大量生産した豊川海軍工廠(しょう)。「東洋一の兵器工場」の誕生は、都市基盤がなかった豊川の地にインフラの整備をもたらし、それは現在も市民の生活を支えている。
水道は現在の豊津町で、豊川(とよがわ)沿いにある大和水源地から取水した。豊川河川敷に集水管3本を埋設して伏流水を汲み上げ、現在も稼働している砥鹿神社西側の一宮上水場へ送水。浄化された水は工廠北側の千両配水場へ送られ、同配水場からは地形の高低差を利用した自然の力で工廠内に流れていた。
大和水源地は現在、県水産試験場の施設となっているが、周辺には海軍用地だったことを示す門柱や境界標が残っている。
一宮浄水場から千両配水場までは送水管が畑の中を一直線に伸び、「水道みち」と呼ばれた。一宮浄水場から西に約2キロ、篠田神社のすぐ北側にある橋には「水道橋」という名が付いている。配水場まで約4・5キロのうち大部分では工廠当時の導水管がいまも使用されている。
豊川市による近年の調査では、戦時中では珍しい水洗トイレが工廠内に整備されていたことが分かっている。
平和公園の西側、名古屋大学敷地内の雑木林の中には工廠の遺構がほぼそのままの状態で残っているが、白い便器がある共同便所には地下に水が流れる側溝が発見された。工廠に従事した人の手記には「水が流れる便所があった」という証言があり、それを裏付ける発見に、調査した市教育委員会生涯学習課の担当者らを「まさか本当に水洗トイレがあったと思わなかった。当時の最新設備が取り入れられていたことが分かった」と驚かせた。(つづく)