アジアを転戦した歩兵第18連隊/最初の動員は日清戦争 帰還時は三河の首長ら駅まで出迎え/運命決定づけた太平洋戦争 最後はグアムで玉砕
2025/08/23
戦前から戦中にかけて歩兵第18連隊が駐屯した歴史を告げる石碑(豊橋公園で)
陸軍関係者の入営で人口増加をもたらし、豊橋の発展に貢献した歩兵第18連隊。戦地へ出征するたび、若い兵士たちは兵舎などがあった現豊橋公園の営門を出て豊橋公会堂前を通り、大手通、広小路を歩いて豊橋駅へと向かった。沿道では大勢の人が旭日旗を振って見送り、武運長久を祈願。帰還した際にも、三河の各郡長ら首長や住民らが駅まで出迎えた。
最初に動員されたのは1894年の日清戦争。朝鮮半島に渡り平壌を攻略したのを皮切りに、1年近くかけて海城や牛荘、田庄台などを転戦した。従軍した3752人のうち242人が戦死したが、このうち115人は病死だった。
10年後の日露戦争では遼東半島に上陸して南山総攻撃に参加。遼陽、沙河では苦戦を強いられ、2年近い戦争で594人が戦死した。昭和に入り、中国との日中戦争では上海への上陸作戦に加勢。南京攻略後は中国大陸を転戦したが、死者1200人を出しながら補充兵が次々と送られるなど泥沼化した。
そして、太平洋戦争の勃発が兵士らの運命を決定付ける。ミッドウェー海戦で日本の戦局が暗転。1944年2月、本土防衛のため中国に駐屯していた第18連隊にマリアナ諸島への動員令が下った。釜山港から一時帰国した連隊は「崎戸丸」で広島・宇品港を出発する際、涙ながらに軍歌を歌って祖国と決別。その3日後、南大東島近くの海域で米軍の魚雷攻撃を受けて沈没し、半数以上の2270人が絶命した。
残りの兵士はサイパン島に上陸したが、所属する島の守備隊は圧倒的な米軍の攻撃に大敗。連隊はグアムに転戦も、勢いを増した敵の攻撃になすすべなく、米軍の上陸から4日後の7月25日夜、300人に減っていた連隊は軍旗を燃やして敵陣地に捨て身の攻撃。5日後には残る60人も最期の突撃を決行し、玉砕した。
(つづく)