合戦450年記念講座/新城・設楽原資料館の湯浅館長語る
2025/04/02
国衆について語った湯浅館長(設楽原歴史資料館で)
新城市の設楽原歴史資料館で3月30日、1月から開かれてきた連続歴史講座の最終回があった。同館の湯浅大司館長が「奥三河の国衆(くにしゅう)はどう動いたか」というテーマで語り、長篠・設楽原の戦い(1575年)を前に地域の豪族がしたたかに行動した経緯を紹介した。
湯浅館長が焦点を当てたのは、菅沼氏と奥平氏。三河全体では、徳川家康を輩出した松平氏を含め三つの国衆が大きな勢力を持っていたそうだ。
戦国大名となっていった家康らに従っても、元々は同列の存在だ。「たまたま家康が強くなったからそこに所属するだけ。家康の立場が弱くなれば、武田がいいかな、今川がいいかなとなった」
それぞれの勢力分布については書状で残る記録のほかに、寺や神社の棟札、釣り鐘などに記された寄進者の名前を調べることで明らかになってきたという。
その上で、長篠・設楽原の戦いの前に、奥平が武田勝頼側から家康側に寝返った背景を解説。菅沼との土地問題が起きて勝頼に裁定を願い出たのに、対応してもらえなかったことがきっかけになった。
湯浅館長は「国衆というのはしたたか。自分たちを守ってくれるのはどっちなんだ、武田が守ってくれないなら別の家についちゃうよ、ということだった」と述べた。
連続講座は長篠・設楽原の戦いから450年を迎えるのを記念し、全5回開かれた。
450年の節目を迎える「長篠・設楽原の戦い」(1575年)を観光振興などにつなげようと、新城市は3月31日、市役所敷地に大型の懸垂幕を掲げた。のぼり旗500枚も市内各所へ立てていき、機運を盛り上げる。
関連行事として、市は8月30、31日に「戦国博覧会」、11月に「鉄砲サミット」を開催する。毎年恒例の「長篠合戦のぼりまつり」(5月5日)なども予定されている。
戦いでは、長篠城主の奥平信昌が武田勝頼の猛攻に耐えた籠城戦を経て、設楽原での決戦に移行。織田信長、徳川家康の連合軍が火縄銃などを活用し、武田方を撃破した。
勝敗が付いた旧暦5月21日は、現代の暦で7月9日に当たる。