牟呂用水から始まった電気/水力と火力併用 発電機改良で供給体制ようやく確保/恐慌で暗黒化運動拡大 不景気下の商店街さらに厳しく
2025/08/18
牟呂用水に現存する牟呂発電所跡(豊橋市牟呂大西町で)
日清戦争が始まった1894年、歩兵第18連隊がいた豊橋には、県内で名古屋に次ぎ2番目に電気が引かれた。
地元政財界の重鎮ら8人が発起人となり豊橋電灯という株式会社を設立。当初は梅田川上流の細谷川で農業用水車を改造して発電を始めたが、水量不足で発電量が確保できず、送電にも不具合が生じた。そこで、翌年に現在の牟呂大西町に牟呂用水を利用した水力と火力を併用した発電所を建設。発電機を改良するなどして、ようやく供給体制を整えた。
電力を最初に供給したのは、歩兵第18連隊だった。その後、官庁や商店街、一般家庭へと広がっていった。日清戦争後は産業の発展で電力不足を招き、日露戦争後は工業からの需要が高く、企業や商店、役所や家庭における電灯の取り付け希望も増えた。豊橋電灯は豊橋電気に社名を変え、南設楽の作手村に見代発電所を建設。豊橋市内に第15師団が誘致されると、下地町に火力発電所を築いた。
電気をめぐっては、名古屋を拠点とする東邦電力(後の中部電力)と市民との間で対立も起きた。
1930年代に昭和恐慌が起きると、ほかの都市より割高な電気料金に対する市民や企業の不満が積もり、電価争議が始まった。電力会社は料金を払わない世帯には送電を中止する方針を打ち出し、豊橋市西小田原町の29戸に断線を強行。これに同町の380戸は〝一斉同情消灯〟で応じた。この暗黒化運動は市内全域に広がり、廃灯や減灯に乗り出す町内が次々と現れ、門灯の廃止申し込みも全市の4割まで達した。
市中心部の常磐通や広小路のスズラン灯やアーク灯も大部分が消えたが、暗い商店街に人出は減り、不景気にあえぐ人々の商売をさらに苦しめた。(つづく)