帝国主義の光と影⑧

若者ですし詰めになった廠内線/全長約2・4キロ 豊川海軍工廠と豊川駅結ぶ鉄道/朝夕方以外は資材運搬 戦後は高度経済成長に貢献

2025/08/22

旧西豊川支線の引込線沿いに残るレンガ構造の門柱(豊川市穂ノ原1で)

 人員や物資、完成した兵器を運搬するため、豊川海軍工廠(しょう)と豊川駅を結ぶ鉄道があった。工廠の開庁から3年後の1942年5月、豊川鉄道が開業した全長約2・4キロの西豊川支線は、工廠の従事者から「廠内線」と呼ばれた。

 開業当初の終点は現在の桜木公園にあった「西豊川駅」だったが、工員輸送の便宜を図り、さらに約1キロ先の工廠北東門乗降場まで乗り入れた。豊川鉄道が政府に買収されると支線も国有化された。

 従事者らでなる「八七会」の元代表、故・大石辰己さんは生前、この支線を「6両編成の電車に、豊橋や新城から通う10代の若者たちがぎゅうぎゅう詰めになって乗っていた」と回想していた。

 工員らが乗る朝と夕方以外は資材の運搬に使われ、1945年8月7日の午前10時13分、米軍の大規模空襲が始まった時も、ちょうど貨物車への積み込み中だった。積まれた弾薬や機銃に爆弾が直撃して火の海となり、線路近くにいて命を落とす人もいた。

 終戦後、支線の利用客は1日100人前後まで減り、まもなく廃止された。高度経済成長期さなかの1964年には、工廠跡地で日本車輌製造が貨車の製造を開始。支線跡は新幹線車両などを搬出する同社の専用引込線として現在も活用されている。

 支線の痕跡も残っており、スギ薬局桜木店の向かいの佐奈川に架かる佐奈川橋梁には「昭和十六年製作、日本橋梁株式会社」と刻印され、1942年の豊川~西豊川の開通に合わせて設置されたことを示している。また、この橋梁から西に約200メートルには線路を挟むように当時のままの門柱が現存しており、レンガ構造が歴史の面影を感じさせる。(つづく)

廃止される間際の西豊川駅(「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)

2025/08/22 のニュース

旧西豊川支線の引込線沿いに残るレンガ構造の門柱(豊川市穂ノ原1で)

廃止される間際の西豊川駅(「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)

有料会員募集

今日の誌面

有料会員募集

東日旗

きらり東三河サイト

高校生のための東三河企業情報サイト

連載コーナー

ピックアップ

Copyright © TONICHI NEWS. All rights reserved.

PAGE TOP