日露戦争でのロシア人捕虜 豊橋には約800人収容/日本軍兵士より厚遇 礼拝など日常送る
2025/08/15
歩兵第18連隊の営門(正門)。現在は豊橋公園入り口で、門柱と哨舎が残っている(豊橋市美術博物館提供)
太平洋戦争の終結から15日で80年。東三河では明治から豊橋に陸軍が進駐し、大戦末期には豊川に「東洋一の兵器工場」と呼ばれた豊川海軍工廠(しょう)が整備された。時にはまちに繁栄や発展をもたらし、時には悲劇や苦しみを生んだ、帝国主義の光と影に迫る。
明治維新以降、軍備を着々と整えていた日本政府。陸軍は国内各地に新連隊を新設し、86年に現在の豊橋公園一帯に兵舎が完成すると、名古屋に仮屯営していた歩兵第18連隊が移動してきた。8年後に勃発する日清戦争を皮切りに、豊橋から戦地へ赴くことになる。
連隊には、赤石山脈や渥美半島の農山漁村から出てきた兵士らが多く、都市の景観に興味津々だった。1889年2月、後に豊橋駅となる豊橋停車場で事件が起きる。
駅を見物に来た兵士3人が駅員と口論となり、貨車に拘束された。兵士仲間らが解放を求めて銃剣を手に押しかけ、駅舎や施設を破壊する事態となった。地方出身の兵士と、エリート意識の高い駅員の意識の差が原因とされ、この事件後、兵士は帯剣の柄を握ったまままちを歩き、駅員は石を手ぬぐいで包んで持ち歩いたという。
1904年には、満州を占領していたロシアと日露戦争に突入した。1年6カ月に及んだ戦争は日本が勝利。大勢のロシア人捕虜が送られてくると各地に収容所が置かれ、豊橋でも現在の高師緑地に建設された収容所には約800人の捕虜が入れられた。
食費は日本軍兵士と比べても優遇され、日常生活で労働はなく、礼拝や讃美歌をした後は散歩や演劇などの娯楽を楽しんだ。悟真寺(関屋町)に収容された身分の高い将校らはハリストス正教会(八町)で牧師の話を聞いた。
約2カ月の収容期間中、捕虜2人が病死。25歳だったイリヤ・ボロツキーさんはハリストス正教会で葬儀が営まれ、飯村墓地に墓碑が建てられた。(つづく)